この業務にかかわる前まで、私は雑務をこなすだけのこれといって何か出来ることはありませんでした。
嫌なこともちょっと楽しいことも含め、こんなことをしていつまで働くのかなと漠然と思いながらも
20代の頃はただ毎日過ごしていましたが、
ある日本社を東京に移すから経理業務はpataさんがやって欲しいと言われ、仰天しました。
それまでは前任者が書いた伝票を真似て起票して大阪に送るだけで、経理なんてまったくわからなかったからです。
しかも、新しいシステムを入れるから前残を移し、操作を覚えて欲しいと。
小さな事務所で雑務をこなすのは私しかいません。私ひとりでやるしかないのです。
前残も何も、B/Sって、P/Lって何?
借方、貸方って何?
何もかもわからない、知らないのです。
新しいシステムを導入するために男性2人がやってきました。
まずは前残を書き出して、補助コードを設定しましょう、と言われても、
書き出すって何を、
補助って何?
何が何だかまったくわからず、反応できません。
予想を超える無知だと判断したのか、その男性2人は私を見下し、彼らについてきた上司も
「貸借対照表も知らねえのか」とあからさまに口にしました。
今だったら
「そうです!、何も知らないんです、イチからよろしくお願いしま~す、てへっ!(^^)!」と開き直れたのですが、
当時はまだ若くて、無知な自分がたまらなく恥ずかしく、居たたまれない気持ちになりました。
机の上のパソコンを前に座り、左右をその男性たちに挟まれ(バカにされてる空気を浴びながら)、前残を移し、入力のしかたを教わりました。
とにかく言われたままにやるだけ。。。。です。
地獄でした。
少しでも理解しようと、プリントした大量の帳票をバッグに入れて毎日全部家に持ち帰りました。
書類でパンパンにふくらんだ、ずっしり重いバッグを下げた姿が、よほど悲壮感が漂っていたのか、
ある時、電車の中で男性から「大丈夫ですか?」と席を譲られるほどでした。
でも、必死に書類を見ても、B/S、P/Lすら知らないのだから、理解できるはずがありません。
もう、不安でよく眠れないし、どうしようかと泣きたくなりました。
そんな時、上司が「俺はpataさんがこの業務をやるのに不足はないと思ってるから」と言ったんです。
大丈夫か?
どこがどう大変なんだ?
何がわからないんだ?
とか細かく言葉をかけてくれたわけじゃないけど、
「不足はないと思ってるから」のひと言がうれしくて、奮起しました!
上司は私が経理に無知なのは知っている、それでもやれると判断して任せてくれたのだから、やるしかない!と思えたのです。
「pataさんなら大丈夫、出来るよ」じゃなく、
「不足はないと思ってる」が胸に響きました(笑)
バカにしてる男性に挟まれ、萎縮した状態で理解も何も出来るわけがありません、
3月末の前残を別のシステムに移して4月から稼働させる、、、経理にド素人の私が理解した上でやる、なんて余裕はないんですよ。
だから、
とにかく入力のパターンを覚えて正確に操作する、それに徹するしかない。
B/Sってのは左右の数字が同じだったらいんでしょ!くらいの開き直りでやりました。
すごく大変だったし、辛かった。。。でも一年を過ぎ年度更新をする頃にはなんとなく経理がわかってきました。
なんとなく、です(笑)
今振り返ってみても、この時が一番大変だったし、それを乗り越えたから今がある。
なんの取り柄もない雑務をこなすだけの私が経理にかかわり経験を積むことで今もそれで働くことが出来ているんです。
それは上司の「pataさんで不足はないと思ってる」のひと言があったからです。
当時は私だけでなく上司も大変でした。
50歳を過ぎグループ会社とはいえ、畑違いの事業所に出向させられ、従業員は外国人。
それまで英語を使ったこともしゃべったこともない人が否応なく彼らを管理しなければならないのです。
インターネットなどまだ無い時代、辞書を引きながら英文の契約書を作り、ジャパンタイムズに募集広告を出し、ガチガチのカタカナ英語で面接をしていました。
事業所としての業績も良くはなく、資金にも余裕がない、四面楚歌のような状況に放り込まれ、結果を出さねばならないプレッシャーは、私とは比較にならなかったと思います。
それでも愚痴ひとつこぼさなかった上司ですが、
たまに「pataさん、俺、まだ運は落ちてないかな?」と聞くことがあって、
「ハイ、大丈夫です、まだ落ちてません!」と答えていました(笑)
上司も何かにすがりたいというか、
努力やがんばりだけではどうにもならない「運」や「ツキ」に見放されてないか、少しでも安心を得たかったのかもしれません。
「不足はないと思ってる」のひと言は、意図して言った言葉かどうかはわかりませんが、
私にとってはスイッチが入った、今も忘れられないひと言です。